ありがとうございました。

先日、教室発表会が無事に終わりました。

お疲れ様でした、ありがとうございましたconfident

 

去年は、母の介護で一旦は教室を捨てた身でした。

そんな中、地道に練習を続け、私が戻ってくるまで教室を存続してくださり、なおかつ私を励まして元気を注入し続けてくれた生徒さん方・・・

感謝の念に堪えません。

そんな皆さんに、何の恩返しができるかな、と考えた時に、発表会をやろう、という意思が固まりました。

が、実際、練習時間も費用もばかになりません、みなさんには逆に負担を負わせてしまいました。

そして、練習も発表会も出たいのに、それが叶わない生徒さんたちもいました。

たくさんの思いを乗せて、例のごとく、私の突っ走った思いのみで見切り発車した発表会。

みなさんのがんばりにより、踊りの完成度が増して行く中、本当にこんな時期に発表会なんて企画して良かったのかなと、

後悔もしました。

若い時は、発表会なんて出て当たり前、やれて当たり前という感じでした。

だけど、無事に当日を迎え、しかもみんなが全力を出し切って、スカッと終わるなんてことの方が、実は奇跡に近いことなんだな、と、怖くて怖くて仕方ありませんでした。

なんですが。。。

 

やっぱりあの時が、今でしょ、の時なんだったと、今は思います。

 

ビデオ撮影で長年お世話になったスーザンパパ、ニコニコしながら、どこかでカメラを回してくれていた気がしてます。

私の一番のファンで、スペインに行く時も、教室開くときも、いつも後押ししてくれていたお母さん、観に来てくれていた、いや、一緒になって踊ってくれていた気がしてます。

ギターの鈴木淳弘さん、歌の大橋範子さん、大渕博光さん、ものすごいパワーを後ろから送っていただきまして、みんな持ちこたえられました、本当にありがとうございました!

お手伝い、完璧な仕切り、とてもスムーズに進行しました、強力バックアップ、ありがとうございました!

お忙しい中ご来場してくださったみなさま、みなさまの暖かい思いが私たちの支えです、ありがとうございました!

そして、並々ならぬ熱意と気迫で発表会に立ち向かっていった生徒さん達、本番が一番良かったです、本当によくがんばってくれました、お疲れ様でした!

 

きっと、フラメンコが人生を飲み込んでいってくれるから、肩の力を抜いて、思うように漂っていきたいな、と妄念してしまうのは、欲張りでしょうか・・・

いろんな事象が手繰り寄せられるように繋がっている、だから、やっぱり私は、繋ぐこと、紡ぐことががしたいんだと思います。

 

冬の清冽な寒さの中、新たに出発した西川丸、浮世荒波くぐりぬけ辿り着くのは・・・やっぱり常夏のワイハが良いなあ~confident→基本軟弱者・・・

 

 

 

 

 

母は。

母は、いわゆる勘の鋭い人だった。

私が何か問題にぶちあたって悩んでいたりすると、決まってタイミングよく電話をかけてきたり、ふいに会いに現れたり。

離れていても、愛されてるんだな、守られてるんだな、と思うことがよくあった。

「もう、私の介護で大変な思いしなくてもいいんだよ、私も闘い抜いたから休みたいよ。お父さんをよろしくね」

都合の良い解釈だけど、私にそんなメッセージを残して亡くなっていったような気がしてならない。

自分のことはいつも後回し、夫のため、子供のため、ばあちゃんのため、、、いつも人のために動き回っていた母だったから。

それを考えると余計にかなしいけどね。

 

そんな、人のために尽くしてきた母が病気になってしまったのは、母の命懸けの叫びだった気がする。

私もう尽くすの疲れたよ、尽くされたいよ、みんな私のこと構ってよ、って。

同居し始めたころは、お前に世話かけたくない、子供の世話になるの嫌だ、なんて言ってたけど、私にオムツ替えしてもらってる時の母は、なんだか幸せそうだった。

私がご飯食べさせてたら、「楽でいいなあ~」なんて言ってた。

食事後、リップクリームを塗ってあげると、すっきりと満足そうな顔をしていた。

私が何か作業をしていると、私のことをずーっと目で追っていた。

とっても澄んだ、きれいな目で。

その目は、赤子みたいと思ったこともあるし、ハリーの最期の日の目みたいだ、とも思っていた。

 

退院したばかりの頃は、痴呆のような症状がでていたけれど、家に戻ってしばらくしてからは、それもおさまっていた。

私が「お母さん、今日もきれいだね~」と言うと、

「うそよ、うそ!」と照れたり。

すっかり可愛いおばあちゃんだった。

だから、母の介護は子育てより全然楽だ、といつも思っていた。

子供は・・・いうこと聞かないし、暴れるし、すねるし、もう大変・・・

だけど・・・

私がこうして減らず口をたたけるのも、母が辛抱して子育てしてくれたおかげ。

いずれのことも、すべて輪になって繋がってゆく。

 

私が母につきっきりになっていると、当然子供がすねて感情的になる。

「僕とああちゃん(ばあちゃんのこと)と、どっちが好き?」

とよく聞かれた。

子供にも苦労かけたけど、「僕がああちゃんに食べさすよ!」

と言って、台の上に乗り、アイスやプリンを母に食べさせていた姿は泣けたよ。

幼いお前にそんな気を遣わせて済まん。。。

母は私を見て苦笑しながら、「ありがとね」と言ってたっけ。

 

父はどうしてもスパルタで、男ならではの強引さで、それでも一生懸命介護していた。

ご飯をたべさせてもらったあと、母は「拷問だよ・・・」

とこぼしていたり、「優しさがないんだよ・・・」

と愚痴っていたりしてた。

けど、やはり父のこともずーっと目で追っていた。

お父さんにたっぷり構ってもらって、愛情かけてもらいたかったんだよね!!

 

だから・・・

私の突っ走った思いのみで始まった親との同居、介護生活。

大変なこともたくさんあったけれど、いつもの雑多な、騒々しい住空間で、母を見送れたことは良かったことなのかな、と思えてくる。

きっとそうだよね?!

 

そして。

病人と頑固な父との同居を快諾してくれ、私のイライラをすべて受け止めてくれていた夫に、ありがとう。

 

そして。

みなさまの暖かい励ましがなければ、ここまで来られませんでした。

心より御礼申し上げます。

ありがとうございました。

不肖西川を、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

入寂後

身をえぐられるような激しい後悔。

タンの吸引なんかしたからお母さんは逝ってしまった、

私がなんとかできると、傲慢に思っていたから逝ってしまった、

介護に疲れて、いつまでこの状況が続くんだと、毒づいたから逝ってしまった、、、

私のせいで逝ってしまった・・・逝ってしまった

苦い涙しか出てこない。

 

それからどう過ごしてたんだかあんまりよく覚えていない。

葬儀屋さんを決めたりだ、なんだとやらなきゃいけないことを淡々とこなしてはいたけど、心が浮遊しているようだ。

友達にもすぐにメールできなかった。

重い腰上げて、ようやく連絡入れ始めたら、察したんだろか、重ちゃんからメールがきたので、

臨終の時の様子を初めて伝えた。

「おめえの呪いぐらいで親は死なねえよ、親をなめんな!」

ってメールがきた。

それでちょっと目が覚めた。

つらいはつらいけどね。